新内横丁の調べから(1)

愛する神楽坂 今は昔

人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくの如し……世の無常観漂う鴨長明の「方丈記」の冒頭です。
神楽坂生まれ育ちの神楽坂四代目で、戦中の強制疎開の期間を除いて74年間住みついている私は、神楽坂の変遷を眺め暮してきた。老舗の多くが消え、かつ住人も当然新旧交代し、出入り目まぐるしく、雰囲気も一変した。
私の家は戦前も今の場所であった。厳密にいうと住まいは現東京都教育庁庁舎(戦前は赤城小学校)の隣の小さな跡地を入った所にあった。今の住まいは毋が昭和3年に開業し平成10年まで続いた小料理屋「喜久家」の場所。この横町は現在「新内横丁」と呼ばせていただいているが、戦前も賑やかな横丁で、喜久家の隣が魚やと寿司屋、前が中華料理屋で突き当たりがカフェであった。母の店も大層流行ったと聞く。今は昔のはなし。
大久保通り(都電⑩線で新宿~万世橋)から赤城神社よりは旧通寺町の神楽坂6丁目。この界隈で今なお現役は花豊、山本とうふ店、御厨碁盤店、大内理髪店、和田写真館、履物の加登家等が戦前より続く店舗である。喫茶店のコバンの勝村家は戦前からの店だが、職種が異なり以前は自慢焼き、夏は小豆アイスで、どちらも美味しく子供の頃によく買って食べた。その後「正一合」なる一杯飲み屋を開業してこれがまた大変はやった。まだ他に何軒かはあるがほとんど消えてしまった。
毘沙門界隈では、文具の相馬屋、龍公亭、夏目写真館、履物の助六などが老舗で、それ等以外でも商売を替えて存続している店舗が残る。戦後に営業開店して今なお商いが盛んなる店も、私からみるとそれ程老舗とは言えないが、神楽坂を代表する有名店が出来ているのは心強い。
私的にみて懐かしいと思い出す今はなき店は何軒かあるが、羊羹の塩瀬、毘沙門横のラーメンの明月、同前の魚金と、西田酒屋、洋食の田原屋、大江戸線A3出入り口の辺りにあった七味唐辛子店。薬の宝生堂、お茶の明治園、竹沢家具店、武蔵野映画館(現スーパーよしや)、本多横町の遠政。特に遠政の煮こごりとすじは絶品で、この店より美味しいすじは未だお目にかからず天下一品であった。絶対に!
懐かしい店があると言えどやはり花柳界あっての神楽坂。華やかな色っぽい姐さん方が、褄(つま)を摘んで歩く粋な姿が石畳から消えたら神楽坂は終わる。黒塀の中から三味線の音や太鼓の賑やかな音色が聞こえなくなったら神楽坂の燈は消える。どんなに街が活況を呈しても、どれだけ人が溢れようとも料亭から衣擦れと白い足袋の下駄の音が心地よく刻まなくなった時、神楽坂は神楽坂でなくなる。
若者や外国人が坂の小道を小躍りして闊歩しようと、どんなに商店だけが繁盛しようと、花柳界が常に神楽坂の代表である。
神楽坂はあなた方で持っている。だから応援をしたい。
僕は花街が大好きだから。神楽坂をこよなく愛していから。世の大河の流れは絶えずして、どう変わろうとも。
神楽坂人の私が新内人として、今日に至った足取り一端をいくつかの海外公演紀行文を交えて書き記そうと思う。

「神楽坂」平成25年4・5月、67号より

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